柏の八木重吉文学散歩モデルコース

コースの紹介(全体約2時間)

◎柏駅西口出発

  •  ↓ 徒歩7分
  • ・詩碑「原っぱ」
  •  ↓ 徒歩5分
  • ・東葛飾高校通用門
  •  ↓ 徒歩10分
  • ・旧居(職員住宅)跡(古井戸跡が残っている)
  •  ↓ 旧流山街道沿いに柏駅方面に戻り、商店街・踏切を渡って徒歩30分
  • ・旧水戸街道との交差点から柏神社(古い銀杏の大木あり)
  •  ↓ 徒歩1分
  • ・仮寓跡(不明)付近
  •  ↓ 徒歩10分
  • ・長全寺(旧制東葛飾中学創立時の仮校舎がここ)
  • 終了(徒歩10分で柏駅東口に戻れる)

散歩モデル

《 解説 》

柏駅(2階にJRと東武の駅が並んである)を西口に出て、左前方に見える、LOUIS VUITTONと書かれたビル(1階が「りそな」銀行)を見ながら歩道橋を降りて、「あさひ通り」を250メートルほど歩いていくと国道6号線に出る。

歩道橋を向こう側へ渡り、左側に折れ、歩道を100メートル位行くと、右手の木立の中に、重吉の詩碑「原っぱ」がある。昭和60年10月に建立された詩碑で、11月4日に除幕式が行われている。重さ22トン、幅3.5メートル、高さ1.8メートル、奥行き2メートルの堂々とした石である。重吉が大正14年、英語教師として転任してきた東葛飾中学(現高校)の校庭の一角に建てられたものだが、一般の人々にも見てもらえるように、国道に面して建っている。刻まれている詩は、大正14年重吉が作り(詩稿「ことば」6月7日編)、9月「文章倶楽部」という雑誌に載せる際に、一部修正して発表した詩である。

原っぱ
ずいぶん
ひろい原っぱだ
いっぽんのみちを
むしょうにあるいてゆくと
こころが
うつくしくなって
ひとりごとをいうのがうれしくなる
原っぱ石碑

東葛飾高校の6号線沿いに建つ詩碑「原っぱ」

6月の詩では「原っぱ」が「のはら」となっていたが、たぶん「原っぱ」の方が響きがよいということで修正したのだろう。この詩に表われている原っぱの自然こそ、重吉が住んでいた頃の柏の姿であり、この辺一帯は広く小金原と呼ばれていた。

詩碑の場所から更に50メートルほど歩いて行くと、県道柏流山線(流山街道)との交差点があり、その角に交番がある。交番の手前に東葛飾高校の通用門があり、そこから中をのぞくと、モニュメントが見える。平成7年11月に、老朽化した校舎(重吉が教えた校舎)の玄関部分だけが、保存運動の結果モニュメントとして残されたものである。重吉が赴任した当時新しいモダンな校舎として建てられ、東葛飾中学校時代から高校の時代へと約七十年にわたって使用されてきたものであった。重吉が教鞭をとった校舎である。かつてはこの玄関を望む形で、正門が流山街道沿いにあったが、今は閉鎖され、さらに歩道拡張のため壊され塀になってしまった。

東葛校舎

モニュメントとして保存された旧制中学時代からの玄関

交番がある交差点を流山街道に沿ってまた250メートル位進むと、コンビニ(ローソン)のある交差点にぶつかる。この交差している道は、かつては小金牧の名残を示す野馬土手が走っていた道である。小金牧とは、江戸時代軍馬の養成を目的に幕府が直轄して整備した自然の牧場であり、明治以降開墾されていくものの、広い原っぱとしての自然は残っていた。

あかつちの
くずれた土手をみれば
たくさんに
木のねっこがさがってた
いきをのんでとおった
詩稿「赤土の土手」

交差点を右に折れ、この道に沿って少し進むと高校の現在の正門があり、その中に松木立がある。大正当時は松林に囲まれた学校であり、細長く伸びた松は、当時の雰囲気を伝えている。

ほそい
松がたくさんはえた
ぬくいまつばやしをゆくと
きもちが
きれいになってしまって
よろよろとよろけてみたりして
すこし
ひとりでふざけたくなった
詩稿「ことば」
松林

松林が広がっていた当時の面影を残す松木立

井戸

職員住宅があった頃使われていた共同井戸

*正門からローソンのある交差点まで戻り、流山街道沿いに100メートルほど行くと、左側に現在は閉店しているコンビニ(ライフマート山伝商店)があるが、その手前に路地がある。この路地を入って少しいくとまた右に路地がある。この辺がかつて重吉家族が居住していた職員住宅があった所である。当時住宅が4軒建てられ、重吉は手前から2軒目に入った。現在は一般の住宅になっているので、勝手に入ると失礼になるが、当時のものと思われる古井戸が庭の一角に残っていたことから、その辺が旧居あたりと推察される。近くに住んでいる人もよく知らないのが普通なので、ここは知っている人に案内してもらう必要がある。当時住宅の裏手(東武野田線側)には当時2本の桜の木が植えられていて、その向こうに垣根、垣根越しには桐畑や麦畑があり、その向こうに野田線が走っていた。

きれいな桜の花をみていると
そのひとすじの気持ちにうたれる
「ノオトA」

桐ばやしは
わらわぬ
うつくしい
ほほのようだ詩稿「桐の疎林」から
から から
かるい
きしゃだ
はるだ
詩稿「春のみづ」

ある時
するするっと
汽車が雨の中をわけもなくいってしまった
みていたらば
もっていかれるような気がした
詩稿「うたを歌わう」

住宅は流山街道に面して建てられ、家の前は3万坪といわれた原っぱであった。(現在は豊四季団地)そして松林や雑木林がつづき、その上にはるか筑波の峰がみえた。学校から帰ると重吉はよく家族を連れて原っぱへ散歩に出た。そしてこの原っぱの自然の中で瞑想し、詩を作り、親子4人の暖かい家庭を楽しんでいた。

おおぜい
原っぱで茅をかってる
ぐんぐんかってる
どこか
人のいないとこへでもいって
こうぐんぐん茅をかってることについて
ゆっくりかんがえてみたいとおもった
詩稿「美しき世界」

あの夕焼けのしたに
妻や桃子たちも待っているだろうと
明るんだ道をたのしく帰ってきた
『貧しき信徒』

まことに愛にあふれた家は
のきばから火をふいてるようだ
詩稿「ひびいてゆこう」

重吉の住居跡から流山街道を引き返し、交番のある国道六号線との交差点に戻り、今度は逆方向に真っ直ぐ進んで行くと、JRと東武の鉄道に突き当たる。かつては、開かずの踏切といわれた踏切があったが、今は閉鎖され、自転車と歩行者が渡れるだけの橋が出来ている。この橋を渡って駅の東口側に出、更に300メートルほど商店街を歩いて行くと、千葉銀行がある十字路に出る。この交差している道路が旧水戸街道である。ここを左に折れて歩き右を見ると、柏神社が見える。境内の入り口には、当時からあったと思われる大きないちょうの木が立っている。

イチョウの木と神社

旧水戸街道。大イチョウがある右手が柏神社

いてうの葉は黄いろく落ちしいて
それを持って遊べば
それを手にたばねてもてばうれしかりし
それだけにてたらへりし
夢よ夢よおもいでは夢よ
うつくしきゆえ胸いたきゆめよ
詩稿「よい日」

神社をもう少し行くと、柏駅東口から走る中央通りと交差する。この中央通りは現在は突き抜けて十字路になっているが、以前はT字路であった。そしてこの交差点あたりが、かつて重吉が、ほんの僅かの間であるが仮住まいしていたところになる。町の裕福な商家であったと『琴はしずかに』には記されているが、繁華街になってしまった今では全く面影は残っていない。現在「うどん市」という店のところ(最近2階にカラオケLOHASが出来、その看板の方が目につく)が、「山野辺陶器店」という店があったところで、一度伺ったことがあるが、もう当時を知る人はいなかったので確認はできなかった。おそらく仮寓は、このお店か周辺の商家であったに違いない。大きなケヤキの木があり、家のまわりには竹林があったと言うが、当時はたいていの家が、そのような木々に囲まれていた。

散歩_photo06

柏駅東口からの中央通りが旧水戸街道と交差する付近に重吉の仮寓があった

すべて
もののすえはいい
竹にしろ
けやきにしろ
そのすえが空にきえるあたり
ひどくしずかだ
詩稿「赤土の土手」

この交差点から更に250メートルほど行くと、右に病院(巻石堂)がある十字路があり、左に行けば駅に通じる。この交差点を右に折れて進むと左手に長全寺がある。ここは東葛飾中学開校の年、仮校舎として借りていた場所である。大正13年の開校であるが、翌14年に新校舎が出来て、現在の地に移り、その年重吉が赴任して来たのである。

(モデルコース終了〉

*参考1

(少し離れた手賀沼を見たい人は次へ)

長全寺から更に進み、次の交差点を左に折れずっと行くと国道16号線に出る。この道を渡り、細い路地を抜けて行くと、柏公園及び市民文化会館に通じる道に出る。文化会館の先にふるさと公園が出来ている。その先が手賀沼である。今は散歩道が整備されて、沼に沿ってずっと歩いていくことができる。重吉が柏へ転任して来た理由はいろいろあるが、その一つに、万葉のふるさとである葛飾に来ることを喜んだことがある。おいしいウナギが取れる手賀沼のことも知っていただろうが、登美子夫人の話では、手賀沼へは1回しか行ったことがないと言う。また詩も次の1篇しか見当たらない。

おおきな
沼をみた
そのこころは
しずかに生きてゆく
つまり死なないんだ
詩稿「赤土の土手」

手賀沼

重吉が散策に来たであろう手賀沼

◇参考2

この辺までが適度な文学散歩できる範囲であるが、余裕があるならば、手賀沼を我孫子に向かいながら、大正の文人たち(志賀直哉、中勘助、滝井孝作、武者小路実篤等)めぐりを加えるのも良い。柏に近い我孫子市船戸には武者小路実篤が住んでいた邸宅があり、現在の居住者がいるので自由には参観できないが、所有者が敷地内に「小綬鶏」というレストランを経営しており、そこに入ると回りがうっそうとした林になっていて(緑地保存地域)昔の雰囲気を伝えている。大正当時は南側にある畑の辺まで沼が迫っていたと思われる。そちらに回って見ると邸宅内への裏門になっている所があり、閉鎖されてはいるが、そこから高台になっている屋敷内の庭園を望むことはできる。斜面に成長した高い木がたくさんあるので、沼側から邸宅を望むことはできないし、邸宅内から手賀沼を望むこともできないと思われる。
少し遠くなるが、市役所に近い手前の地域に志賀直哉の旧居跡が整備されている。また隣接して「白樺文学館」が造られているので、そこで白樺派の学習もできる。
一方柏駅から北柏駅の方向に向かい、距離はあるが布施弁天から利根川まで足をのばすことも考えられる。布施弁天は、学校の遠足の引率で重吉が行った可能性がある。また利根川は、この近辺の学校の校歌の中に、手賀沼と並んでよく出てくる大河である。

ひろい川をみると
かなしみがひろがるのでらくになるような気がする
詩稿「しづかな朝」