柏在住時の八木重吉の生活

 

1.柏への転地のきっかけ

重吉は、東京の高等師範学校を卒業したあと、兵庫県神戸にある御影師範学校に英語教師として赴任する。そこで四年間過ごす間に、彼は歌作りから詩作へと進み、詩人としての自覚を深めていくが、基本的には、彼はまだ教師であった。師範学校の生徒たちの、英語の授業に対する意欲は今一つで、失望を味わうことになった。初めて教師として教え始めるときの、意気込みと期待が重吉にもあったことであろう。しかし高等師範学校を卒業したての重吉は、すぐ挫折を味わわなければならなかった。

自分の教え方が、学校の生徒には受け入れられないという現実は、多かれ少なかれ、教師経験者ならだれもが感じるものである。とみ子の家庭教師として教えていたようなわけにはいかない。御影時代には、テストの答案に何も書かない、いわゆる白紙答案事件があった。学習内容がわからないから最初からあきらめてしまったのか、それとも教師重吉へのあてつけかわからぬが、とにかく重吉にとってはショックだったと思われる。

生徒のことで悩んでたまるストレスを解消するために、一般的には、職員室で教師同士で語り合いながら、同情しあったり、先輩の教師が新米の教師に「まだ若いからこれからだよ」とか慰めあったりするものである。しかし重吉はそういう世間話をするタイプではなかった。家に帰り、文章にしながら、歌や詩作でそれを解消する方向に向かった。

大正のこの時代であるから、生徒に不満はあっても、生徒は教師には従わなければならないという、上下の秩序があった時代であるから、生徒の責任にして自分を正当化することもできただろう。しかし重吉のキリスト者としての自覚が、「生徒らを神の化身と思わなくては」と自己反省に向かう。生徒の中には、この重吉の真摯さを見抜いた生徒もいたのだが、概して、重吉の授業になじめなかったようである。

いずれにせよ、彼は教えることの挫折を味わった。そしてその教師としての苦しさが、すでに湧き起っていた登美子【とみが正式名だが、重吉が富子と書いたり、一般にはトミコさんと言われているので、この稿ではすべて登美子で表記】への恋心をいっそう募らせ、創作意欲へと昇華された。さらには、真理を求める宗教的な求道も進んでいった。彼の文学嗜好と信仰の求道心が、教師としての挫折経験によって、明確に成長させられていったとも言える。

登美子への恋の激しさは、体調を崩したとみこを御影に強引に呼び寄せての結婚へと進ませ、教師としての挫折があったはずなのに、現実は、子供も生まれ詩作も進み、御影の生活を楽しんでいた。温暖な御影の自然を愛し、詩集出版の夢も描いていくことになり、教師としての挫折に負けない、芯の強さがあった。

しかし故郷の近くに戻りたいという願望と、機会があればもっと英語に意欲を持つ生徒がいる職場に移りたいという思いが、重吉に出てきていた。高等師範の恩師内藤卯三郎氏に東京近辺への転勤のお願いをしていた。そこに、新しく創立されたばかりの、柏の東葛飾中学校への転勤の話が来た。相原の生家に近く、上野から常磐線も通っており、中学校は駅から歩いて十分くらいで便も良い。重吉はよろこんだに違いない。そして学校の名前も気に入った。「葛飾」は、重吉が愛した万葉集のふるさとの地名である。登美子夫人は、柏で重吉が肺結核になったことから、柏に来て失敗したという言い方もしているが、重吉には願ってもない転任だった。

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2.仮寓時代

柏に来てすぐ、わずかの間であるが、柏駅から見て中学校側とは反対側の東口に仮住まいをした。『琴はしずかに』の記述によれば、裕福な商家の離れを借りたとある。庭に小さな池があり、また大きなたくましい樹が生えていて、裏手には風情のある竹林があった。風呂場は別棟にあり、五右衛門風呂で、下駄をはいて入ったという。近くに空き地があり、時々地方巡業の芝居小屋が張られ、村の人々が見に来た。またあるとき登美子夫人が陽二を背負って仕事をしていると、帯からずり落ちて来て、陽二の息が詰まって窒息状態になりかけた経験もしている。大きなシマヘビが竹垣の上を這っているのを見つけて肝を冷やしたともいう。

さらに登美子夫人の証言では、仮寓は、駅からまっすぐ中央通りをいったT字路の、ちょうどTの頭の部分あたりだと言う。現在は突き抜けて十字路になってしまっているが、30年前まではT字路で、Tの頭の右側に、山野辺陶器店という店があった(現在の「うどん市」の看板があるところ)。一度その陶器店を尋ねてみたが、大正当時を知っているものはいなかったので、つきとめられなかった。Tに交差していた道は旧水戸街道である。

当時に近い時代に描かれた、柏駅付近の鳥瞰図を見ると、各家の周りには、けやきの木、竹林、イチョウなどが見える。とくにイチョウは、先ほどの山野辺陶器店の右手の柏神社に、大きな樹として描かれている。これは今でも神社の境内に残っている。これらの草木はみな重吉の詩に登場する。水戸街道を神社からもうすこし西に行くと、現在千葉銀行がある十字路がある。ここで旧水戸街道と交差している道が流山街道で、駅の西口側の部分は、当時つくられたばかりの新しい道であった。

T字路に戻って、水戸街道を反対の東側にずっといくと、右手に柏町役場があった。今はアミュゼ柏(柏中央近センター隣)である。大正十五年の九月に、柏は千代田村柏から柏町となっているが、すでに重吉は柏を離れていた。アミュゼ柏の少し手前にコンビニがある交差点があり、右に折れて少し行くと左手に寺がある。これが長全寺で、大正13年東葛飾中学が開校された時、まずは、このお寺を借りて授業が行われた。そして翌14年から、駅の西口側に新しく完成した、モダンな二階建ての校舎に移り、その年に重吉が赴任して来た。

このように重吉の仮寓は東口にあった(こちらの方が最初に開発された)から、最初の散策はこの近辺だったと思われるが、詩には出てこない。ほんのわずかの期間しか仮寓にはいなかったからであろう。

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3.職員住宅と周囲の自然

まもなく、新しい校舎近くに職員住宅が完成し、そちらに引っ越すことになった。東口の旧水戸街道と交差していた流山街道は、踏切を通って西口に通じていて、学校も職員住宅もこの街道沿いにあった。流山街道は豊四季駅までは東武野田線とほぼ並行しているが、野田線と街道にはさまれた畑の一角に、四件の職員住宅が建てられたようで、手前から鷲見、八木、青木、松山の各先生が入った。そして2件の間に共同井戸があった。街道の向かい側には広い原っぱと山林がひろがっていた。重吉夫婦が3万坪の原っぱと呼んだところである。原っぱの向こうに筑波山が見えた。

家の造りは、原っぱに向かって門があり、敷地は道より少し高くなっていた。玄関3畳の間を入って、左側に3畳の勉強部屋、奥に床の間つき六畳の部屋、縁側につづいて左に3畳の食事用の部屋、台所は土間となっていて風呂場も土間の中にあった。家具は洋書と古典、詩集などのぎっしり詰まった本箱と机だけ、あとは押し入れの中にしまってあった。引っ越してしばらくはランプ生活で、その後やっと電灯が使えるようになった。井戸は家の裏の庭にあったが、その先は低い垣根、垣根の外は若い桐の疎林、さらに向こうに麦畑があり、当時、貧しい農夫が子供を連れて働いていたようだ。栄養失調で、夕方になると目が見えなくなると聞いて、桃子の着物を子供たちにあげたこともあった。

職員住宅に移ってからは、筑波が見える原っぱが重吉の散策の場所となり、多くの詩作がこの原っぱの自然を題材に生まれた。学校に近い原っぱの部分は、「吉田っ原」と呼ばれ、そこを含む原っぱ全体は、現在は豊四季団地となっている。かつては一時競馬場もあったところである。

馬はこの辺とつながりが深い。平将門の昔から、この辺は軍馬の養成に適した地域であり、江戸時代に放牧場として整備が進み、この辺一帯は小金が原と呼ばれた。その当時の面影を残すものが、野馬土手と呼ばれた土手として、学校の周囲にも残っていた。重吉の詩では、「赤土の土手」という言葉で登場する。今の東葛飾高校の正門前の通りに沿って、かつては土手があったと思われる。「学校に沿って土手が走っていた」と、登美子夫人も証言しているし、実際、この辺は上野牧と呼ばれた牧場の一角で、土手の跡が古い地図に記されている。

正門前を走っている道に沿って、松林の名残の松が、学校の敷地内に残っている。現在の体育館の北側にテニスコートがあるが、テニスコートと道の境にも、かつては大きな松が生えていて、根がむき出しになっていた部分があった。土手の走っていた名残だったに違いない。土は、この辺では関東ローム層という赤土であった。学校も、駅から学校に向かう流山街道も、この時期に新しく作られたものなので、赤土の土手が学校の敷地の区切りになり、土手を切る形で新道は作られたと思われる。『琴はしずかに』によれば、土手下にあった一軒の平屋が、手焼きせんべいを焼いて売っていたとある。

豊四季団地の中にも松林が残っている。重吉の詩によく登場する松がこの辺一帯にたくさん生えていた。だだっぴろい関東平野の中にあるから、天気が良ければ、北の筑波山のみならず、西に富士山も見える。富士見ヶ丘とか富士見台という地名が、この地域にも多く残っている。また西の夕日も晴れた日はよく見え、時には、真っ赤に染まった美しい夕焼けも見えた。神戸の御影中学校(かつての御影師範学校の敷地の一部にある)に、詩碑「夕焼」があるが、この詩は柏時代に作られた詩なので、原っぱの西側に沈む夕日をうたったと思われる。重吉の詩情が高まる自然がたくさんあった。

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4.学校の教師

大正14年に新築された、「白亜の殿堂」のようなモダンな校舎は、授業で使用されなくなった後も、部活動の部室として、20年位前までは残っていた。さすがに老朽化が進んだので平成7年にとりこわされたが、その前から起こっていた保存運動が功を奏し、玄関の部分だけはそのまま残され、他の新しい彫刻と調和して立っている。

実は、「八木重吉の詩を愛好する会」の結成を決断した四人のうちの3人は、この東葛飾高校の出身であり、重吉が教えた古い校舎で勉強したのである。『八木重吉文学アルバム』に掲載されている、東葛中学での重吉の唯一の写真は、この玄関前で撮られたものである。重吉は学校創立2年目に赴任してきたから、生徒は1、2年生のみである。その1、2回生の証言が、昭和60年9月1日に『東葛まいにち』という地方新聞に掲載された。貴重な資料なので、紹介しておく。

東葛中学教師時代の詩人八木重吉の横顔
大正14年、創立1年後の東葛中学校(現東葛高校)に八木重吉という英語教師が転任して来たが、病を得て1年足らずで教壇を去ったため、柏市内でも八木先生のことを知る人は少ない。先生は在職中の8月、新潮社から処女詩集『秋の瞳』が出版され、大正末期の詩壇には清澄な印象を与え話題を呼んだ詩人である。その後、戦後にかけ、詩集や全集も出版され、詩人としての業績、評価は明らかにされているが、柏在住当時教師としての八木重吉はどうであったかについては、30歳という若さで世を去ったためか、あまり知られていない。そこで、柏にゆかりのあった詩人八木重吉のもう一つの側面を、彼に教えを受けた東葛中2回生の証言を中心にまとめてみた。いま彼についての証言を記録しておかないと、東葛中在職当時の八木重吉の人となりが分からなくなってしまうからである。

卒業生の「証言」

色白で物静かな
証言1 須藤喜一さん(2回生、我孫子)
NHKの市民大学講座だったと思うが「詩の心」という番組の中で、八木重吉の詩が紹介されたのを記憶している。色白で坊ちゃん風な物静かな人であった。

熱心に発音の勉強
証言2 齊藤充さん(2回生、元東葛飾高校長、取手市教育委員会、取手市)
八木先生は1年生の英語を担当していたが、1学期は当時としては新しい万国音標文字を使った発音記号で、徹底して発音の勉強を繰り返していた。無味乾燥な授業だと思ったが、2学期になると辞書をひいても自分で発音でき、自学学習に大変役立つことが分かった。
先生は授業中、合掌するように手のひらに挟んだ白墨をクルクル回すくせがあった。
ある日、先生は生徒の質問に答えて「詩は難しくもなければ技巧もいらない。強く感じたことをそのまま書けばそれが詩だ」といっていたのを憶えている。
前田先生という図画の先生が「八木先生の詩はとてもいいですね」といって、先生の詩を板書して激賞されたことがあった。

齊藤さんは東葛高校の教員、校長を務め、昭和27年7月発行の同校文学部の部誌『東葛文芸』に「八木重吉先生の思い出」という一文を寄稿している。その中から一部抜粋してみよう。「齢は30歳前後らしいが坊主刈りで、色白で、どこか学生らしいところのあるやさしい懐かしい先生であった」「敬虔なキリスト教徒として昇天されたのである」「思えば偉大な詩人に私達は教わったものである」

作風に近い日常
証言3 根本一夫さん(2回生、柏)
おだやかなすぐれた先生だった。子供心に病身だった記憶がある。

証言4 岡田茂夫さん(2回生、農協代表幹事、我孫子)
おとなしい物静かな先生だった。

証言5 林栄延(2回生、柏)
先生の家(教員住宅)の屋根に登ってラジオのアンテナを直したことがあった。また奥さんの体の悪い時「中将湯」(漢方薬)を買いにいったこともあった。先生は虫を踏むのもかわいそうだ、というやさしい人で、奥さんも人格者で美しい人だ。
先生の詩「ぐさっとやってみたし、人を殺さば心よからむ」という詩をいまでも覚えている。

証言6 甲田正平さん(2回生、柏)
自宅に炭など配達したことがあるが、いつも机に向かっているか、横になっているかしていた。私の家には先生たちがよく遊びに来てお茶など飲んでいたが、八木先生はめったに来なかった。体が弱かったのでしょう。
先生の住んでいた教員住宅はいまの農協(柏市旭町四、東葛農協会館)の裏の方で4軒長屋の1軒に住んでいた。当時の競馬場前停留所の前あたりだと思う。

同級生によると甲田さん(旧姓鈴木)宅は当時は炭など手広く扱っていた地主で、先生たちのめんどうをよくみていたようだ。教員住宅については、八木の妻であった吉野登美子著『琴はしずかに』に次のように触れている。
「手前から1軒目が国語教諭の鷲見先生、その次に私たち、3軒目は教練の松山先生、4軒目は書道を教えながら事務を兼ねておられた青木先生と並んで入った」引っ越して来た当時の模様である。

証言7 後藤武男さん(3回生、柏市元収入役、柏)
教員住宅は市元財政部長の市村友衛さん宅の裏の方にあったようだ。

証言8 岩井茂雄さん(2回生、流山市元助役、印西)
色白、丸顔、小柄、細い目、柔和という言葉がぴったりの先生。豊四季の原っぱに連れていかれた時、先生がこんな詩を読み上げた。
「青い空、白いくも、ああ赤とんぼがわらってる」。おとなしいが、熱心な先生だった。

 

これらの証言から、重吉がけっこう楽しく教えていた様子が伺われる。重吉の授業はむずかしいと思った生徒も多くいたようだが、東葛飾中の生徒は素直に授業を受けていた。重吉の教え方は、基本は御影時代と同じだったようだ。彼自身が英語能力にすぐれていたから、どうすれば、英語力がつくか、彼なりの信念があったと思われる。一学期かけて発音記号を教え込むことで、自分で辞書を読めるようにさせようとした。これは御影師範では難しすぎて白紙答案事件になった。柏の生徒も最初は無味乾燥と感じたようだが、その後大変役に立ったと評価している。発音重視といい、東京高等師範学校で教えられた、その時代の進んだ教授法を重吉は取り入れているのである。

生徒たちの中には、『秋の瞳』が出版された時、自ら詩集を買って呼んだ生徒もいた。教師への尊敬心をもち、その先生の詩集だからと思って買ったと思われる。また授業中に、自分の短くて平易な詩の意味も生徒に説明しているので、重吉の詩をひそかに愛好して、貴重な『秋の瞳』の初版本を長く保存していた卒業生もいた。愛好会として2名の所持者を把握していたが、残念ながらその後両名とも亡くなり、1名の方の家族には是非譲ってほしいとまでお願いしたが、連絡がないまま月日が過ぎてしまい、初版本がどうなったのかわからない状態である。

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5.家族への愛

重吉は、熱烈な恋愛感情を持って、登美子に思いを寄せ、手紙を書き、想像の中で短編小説も書いた。教師としての苦悩を吹っ切るかのように、恋文を書きまくった。恋愛など許さなかった村落共同体に対して、兄からの勘当扱いにも動ぜず、恩師内藤に頼んで婚約までこぎつけ、登美子の体調がおかしくなったと言えば、自分が引き取って面倒見ると言って、学校を中退させ、結婚に踏み切った。登美子に対する深い愛情は、死の間際まで彼女の名を呼び続けたことに現れている。

結婚して御影時代に、2人の子供が与えられ、学校から帰ってくると、妻と子供を連れて散策に行くことが好きだった。柏でもそれは日課のようになる。幼子という存在が、1つの詩の境地を生み出すきっかけにもなった。交友範囲が狭いと言われる重吉であってみれば、家族は最も親しく身近な存在であり、家族との日常生活に中心があり、そこから詩も多く生まれてきた。

生徒との関係が安定した柏時代には、2人の子供と夫人を連れての、原っぱへの散策は、多くのすばらしい詩を生み出す源泉となり、とても楽しかったようだ。学校から帰ってくると、重吉は、風呂にいっぱい石炭をくべて、桃子の手を引き、陽二を夫人が負ぶって四人で散歩に出た。日常の中に詩情を生み出すのが上手な重吉は、〈まことに愛のある家は/のきばから火をふいているようだ〉と、家族との楽しい生活を見事に詩に表現した。

7つ年下だったとみこ夫人に対し、病を得て茅ケ崎の南湖院に入院してからは、母親のごとくに便り慕い、「早く来てくれ!」とハガキに書いている。死の間際には、「子供たちは、自分が死んでも、絶対他人に預けるようなことはしないで育ててくれ」と言い残している。交友が限られていただけに、愛せる存在の家族は徹底的に愛しぬいた。どんなに信仰が深まっていこうと、最愛の〈妻と子をすてることはできない。妻と子をすてぬゆえならば、永劫の罪もくゆるところではない〉と、詩に書き切っている。

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6.詩人としてのデビューと文壇との交友

御影で詩人としての芽が吹くらみ始めていた重吉は、柏に来て授業も順調に進み余裕が出来たせいか、雑誌や新聞に投稿を始める。そしていよいよ御影時代に書き溜め、整理したものをもとに、計画していた詩集の出版を実行に移す。従従兄の加藤武雄が小説家としてデビューしていたから、その手づるを使って出版できるよう頼み込んでいたのだが、柏に来ての8月1日に『秋の瞳』が正式に刊行され世に出た。

すでに『秋の瞳』出版準備時期から、詩の寄稿を求められるようにはなっていた。7月17日の読売新聞に四編が載った。2円の原稿料を初めて手にし、この原稿料で20冊の聖書を10冊買い求めた。流山の方から来た孤児院の一団が来て歌をうたってくれた時、1冊あげた。教会にはいかないままだったが、重吉なりの伝道活動を実践しようとしたのだろう。

また、貧しい人々が物売りに来ると、つい買ってあげてしまい、隣の奥さんから「いちいち買ってあげていたら大変ですよ」と言われた時、重吉は「人にだまされるうちはよいのだ。だます人間になりたくない」と言ったというから、重吉は詩人として認められることを望みはしても、決してお金儲けのためや名声を得るためではなかった。詩集は近くの浅野書店にも並べられ、東葛の教え子たちにも知られ、授業で詩の紹介もした。おそらく、自分の真摯な求道から生まれた詩が、読む人の心に良いものを与えることができると思っていたのではないだろうか。

読売新聞のほかに、『日本詩人』の8月号には9編を、『文章倶楽部』には、8月号に「椿」「心」「筍」「春」「顔」「絶望」「雲」「断章」「春」、9月号に「原っぱ」「松林」を載せている。このうち『原っぱ』は、ゆかりの東葛中学(現高校)の詩碑となっている。『秋の瞳』の出版で重吉の詩が広く知られるようになると、反響があった。『詩の家』の同人、佐藤惣之助からは同人への誘いがあった。『日本詩人』の同人、勝承夫からは、「突如として現れたあなたに本当に喜んだ」との批評が届いた。『詩の家』9月号に7編投稿し、9月27日の『詩の家』の野外詩会が鶴見の三笠園で開かれた時には、重吉も参加し交友が広がった。

孤高の詩人という印象は、一般にもつ重吉の印象であるが、文壇への関心という観点からすれば、彼は早くから関心をもっていた。田中清光氏の伝記のなかで示されているように、彼の蔵書や関心を示している本の多さにはびっくりする。とくに好きだったキーツに関しては、御影時代、キーツの英語原本の詩集を、わざわざ丸善を通して注文し購入している。まだ日本でキーツが高い評価を受ける前に、同年代の詩人として、重吉は注目しているのである。この文学的関心の鋭さは、表面だけからみる重吉のおとなしい姿からは想像できないかもしれないが、彼の文学的な探求の目は、見抜くべきものをしっかりとらえているのである。

そんな彼が詩人としてデビューし、各雑誌から寄稿を求められ、文壇から注目されるようになったのだから、彼の幅広い文学的関心をもってすれば、単なる友人知人としての交流を超えた、文壇人の一人として生きる道も開けたかもしれない。しかし『秋の瞳』の出版に、文壇人であった加藤武雄の助力を利用することまでしながら、職業詩人の道には行かなかった。もちろんその当時の文壇人への評価の低さがあったし、家族を養うとなれば、安定した教師の職に留まっている方がずっと賢かった、ということもあるが、重吉にとって詩は、人間の心にある思いを表現して、読者の心に共感を呼び起こすもの、良きものを与えるものであった。北村透谷の言葉でいえば、詩人は、人間の魂が必要とするものを語る預言者であった。人生の真理を語る。神の言葉を語る。それが詩人であった。文学に対する広い目はもっていながら、職業詩人になるためや文壇での名声を得るためではなかった。

それゆえ詩壇にデビューしても、彼の詩は、あくまで個人の内面へ内面へと向かっていくのであった。それはすでに『秋の瞳』の序文の言葉に表現されていた。交友が少なかったから、友達が欲しいという直接的な意味も含まれてはいるが、それよりも、真摯に真理を求道する友を見出したかったのである。『秋の瞳』の出版は、同じ詩を書く仲間としての友が出来、重吉の詩に感動した読者も出て、序文の願いをある程度は叶えたかもしれないが、彼の孤独な生活を変えて行きはしなかった。

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7.信仰の深まり

8月に詩集が出版され、詩人仲間や愛読者を得て、少数だけど友を得つつも、重吉は本質的には孤独であった。キリスト教の信仰を確かにもっていた重吉の必然的に向かう方向は、キリストであった。大学時代以後は教会へ行かなかったにもかかわらず、彼はキリスト教信仰の求道を続けた。土台となる信仰は、大学時代の聖書の耽読、富永徳麿との出会い、内村鑑三の著作を通して、しっかり身に付けていた。この点では多くの文人が、キリスト教に影響を受けながら、信仰の確信を持てず、離れて行ったのとは違う。大正15年の1月、柏から親戚の八木亀助に次のような手紙を書いた。

「私はいろいろと経てきた後、死と生、の問題におびえました。また善と悪の問題に迷いました。苦しい年月が経ちました。その間いろいろの人の言葉をきき、いろいろの人の行を見ましたが一つとして私を完全に満足させませんでした。
しかるについに一つの路にたどりつきました。一人の人に逢いました。私はまづ其人の言葉と行に完全なる善を感じました。人間わざではない完全なる善を感じました。其の人の他人に対する態度、行、言葉に非の打ちどころがありません。この人の人格は全く普通人を超えています。その自らを空しうして他人のために働く態度、全くの虚心、――それは完全なる善であるとしか考えられません。そして何とも云えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂の魅力、それをその人に感じました。それこそ自分の長い間さがしていた者だ――と感じました。この人の云うことをきけばこの人間の世に生くる根本的な考えが分かると思いました。そしてほんのわづかづつ其人の云った事をやってみると何の事はないぎっしりこめていた霧が少しづつはれる様に、私の生活は少しづつ明かるく、しっかりと血色がよくなって来ました。今までどうしても解けなかった難題がおのづと結び目がほぐれてゆきました。私はこれに勢いを得て益々其の人はいい人だ、真にいい人だ、まちがいの無い人だと信ずる様になりました。ここに於いて、私の自分自らの心に対する問題、家庭に対する問題、広く人生に対する問題が、氷の解ける様に解けてゆくのを感じました。(然し勿論まだまだ本当には分かり切りません。しかし本当の光りをみとめたと云う確信は生じました。)
これは誰か。この人こそ私がこの人をよく知る迄は、大変な馬鹿者、つまらない奴、いけ好かない奴、うそつきとおもっていたイエスという名前の大工のせがれです。(中略)そして此の人はこんなことも云いました『自分は再び此の世にいつか来て此の世を審きする。自分の前へ来て、ああ俺は悪い人間だ、一つとして善いところのない人間だと悔いるなら、その審きのときに天国へ入れてやろう。そうでないものは永遠に罰する。』と。私は、イエスほどの行をなし、あれほどの言葉を云った者が嘘をいう筈はないと信じます。そしてこの点まで信じて来て私の長い間の苦しみは、ただ一つ、即ち如何に絶えず彼の前に自らを悔いんか――この一つの努力に集中されて来ました。そしてそれから後もいろいろ信仰上、又、神についての疑い、迷いが生じますが、いつもつまりは「イエスほどの純潔な、崇高な無我愛に生きた、はかるべからざる智慧の持ち主が嘘を云う筈はない。もしあれが嘘なら此の世の他の事すべてはもっと嘘にちがいない。いわんやこの眇たる自分の、いい加減なこれ迄の知識にそだてられて来た智識など信ずる事は出来ぬ。とにかく世に信ずべきものありとせば」、彼れイエスの言葉と行である。」こう考えて再び努力精進の勇気をふるい起こします。私にとっては今迄読んだ何百何千の書物よりも、このイエスという人の一言が重いのです。世界中の人が嘘だと云っても私には嘘だと思えないのです。

この手紙に見られる確信ある信仰は、後に重吉が肺結核のゆえに教壇を去ることになっての、東葛中学での最後の授業で、重吉が「キリストの再来を信ず」と言ったというエピソードの真実性を裏打ちしてくれる。この手紙を書いた時とほぼ同じ頃、重吉は学校の新年会の寄せ書きにも「キリストの再来を信ず」と書いたことを、同僚で後に校長にもなった歌人神原克重が証言している(雑誌『野菊』昭和3年6月1日号)。

重吉は聖書の言葉を素直に受け入れている。とするなら、重吉はイエスが語る「再び来る」をそのまま受け入れる。内村鑑三の再臨信仰に共鳴したからではなく、キリストの言葉を信頼するゆえに、再臨は真実なのである。そして聖書は、教会が厳然と存在していることを示しているから、重吉が無教会信仰を持っていたとするのは誤解である。重吉は死ぬ間際に、唯一通ったことがある教会の牧師である、富永徳麿牧師に来てくれと懇願し、牧師に教会から離れてしまった非礼を詫びている。求道の一途さゆえに、教会活動にはなじめず、教会を離れていたが、重吉は教会に行かなかった身勝手さを詫びるために、わざわざ富永牧師を呼び寄せたのである。無教会信仰というわけではなかった。

詩人であろうとしながら、重吉の信仰求道は深まっていった。御影時代に、「幼子のような無垢な信仰」、「よみがえりの信仰」という質的高まりがあったことを、彼の詩集は教えているが、柏に来ても更なる信仰の求道は続いていた。『秋の瞳』刊行後の夏から秋にかけての時期は、柏での高揚期であり、『貧しき信徒』の大半はこの時期に作られた詩である。詩的感性と宗教的感性が時に反発しあい、時に融合して、短く切り詰められた傑作が生み出されていった。しかし秋の終わりとともに重吉の体を病がおそうことになる。

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8.発病

大正15年の正月ころから肺炎、結核へと、症状が進行する。すでに学生時代、スペイン風邪が流行した時、肺炎にかかり死ぬかと思われた経験をしている。彼の詩の随所に顔を出す死の影は、柏で結核にかかる前からある。実は、「死」は、若い時代から重吉の人生哲学に入っていた。「死の土台の上に築く人生」の求道がキリスト教に近づかせた。親友吉田不二雄の急死を原因とする人もいるが、それは違う。吉田の急死の前に、重吉は富永に洗礼を懇願していたのである。キリスト教入信は、人生の求道者、重吉個人の決断であった。

重吉の性格や雰囲気からして、世俗との関係においては、ひ弱さを感じることは確かである。マラソンを耐え抜き、鋭くことばを言い切る強さもあるのだが、基本的な人生観としては、消極的、否定的な面を多くもち、それらを克服して強く大胆に生きたいと願って求道していた。であるから結核二期という状況におちいって、死の影は予感したかもしれないが、病気になったから厭世的になって信仰が深まっていくというのではない。妻があり子供がいて、自分は親として育てる義務があるし、せっかく世間から詩人として認められたのだから、これからいっぱい詩を書いて生きたいと考えていた。

キリストに似た修道士フランシスを思って、神に奉仕する伝道活動をしたいと思っていた。「死」はそれらを中断することになる。だから治りたかった。『秋の瞳』に続く詩集も出したかった。重吉の求道は、病気とは関係なく進行していたのだが、不治の病である結核になったことにより、質的に変化せざるを得なかったことは確かである。

〈かなしみ〉を心の奥に感じ、その解消を求めての求道がキリストへの絶対信頼に進ませ、一方でその〈かなしみ〉のゆえに詩が生まれ、〈かなしみ〉を友のように感じてさえいた重吉にとって、病気による死の予感は、最も深い〈かなしみ〉である。詩人でありキリスト者である重吉は、死という絶対絶命の状況の前に、自然に、詩人よりキリスト信仰者の姿を強めて行く。詩を書こうとはするが、信仰の独白になってしまう。それが茅ケ崎時代の重吉の姿となる。

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9.柏時代の重み

鎌倉時代から東京高等師範学校にかけての、英語学習・英文学学習から生まれた文学創造は、御影時代に短文や短歌づくりから詩作へと発展し、芽生えた詩人の芽は、柏で花開いた。また幼少期から実感し始めた〈かなしみ〉の根源と解決を求めての人生求道は、東京高等師範学校時代のキリスト教入信によって本格的に進み、御影時代の教師としての苦労によって一層深まり、柏時代にキリストへの絶対信頼となった。稀に見る詩人と信仰者の統合(葛藤を含んだ)が、八木重吉という人間の中に生まれ、その時期つまり柏時代に書かれた詩が、最も感動を呼ぶ詩となった。これらの詩は、自ら編集をし、死後『貧しき信徒』として出版されることになる。重吉の詩の愛好者が、好きな詩としてあげるものは、この柏時代のものが多い。もっとも凝縮された人生の時期であったからである。その意味で、重吉の柏時代は、短かったけれど、非常に貴重な一年余りであった。