八木重吉の生涯

1. 幼少年時代と原体験

八木重吉は、明治31年2月9日、東京府南多摩郡境村相原大戸4473(現在、東京都町田市相原町)に、代々農業を営む八木家の次男として生まれ、そこで13歳までを過ごした。6歳の時、相原尋常小学校大戸分校(現在、相原幼稚園の敷地となり「ふるさとの川」の碑がある)に入学、10歳の時、神奈川県津久井郡川尻村尋常小学校(現在、相模原市立川尻小学校)となり、「飯」の碑がある)へ通い、12歳の時高等科へ進んでいる。この時、準訓導として赴任してきた再従兄(またいとこ)の加藤武雄の教えを受けたと思われる。加藤武雄は、後に文学を志して作家となり、重吉の『秋の瞳』出版に尽力している。

自然に囲まれ、伝統的な風俗、習慣、行事のもとに過ごした幼少年時代の体験は、重吉の原体験を形成し、重吉の詩のテーマの一つにもなっている。

ふるさとの山
ふるさとの山のなかに うずくまったとき
さやかにも 私の悔いはもえました
あまりにもうつくしい それのほのおに
しばし わたしは
こしかたの あやまちを讃むるようなきもちになった
『秋の瞳』

故郷
心のくらい日に
ふるさとは祭のようにあかるんでおもわれる
『貧しき信徒』

ふるさとが、限りなく美しいイメージで描かれている。ふるさとの世界、幼少年時代の世界が、夢の国、理想の国、あるいは天国のようなイメージでとらえられている。一般に、幼少年時代を穏やかで美しい田舎の自然の中で過ごした者は、四季折々の自然の美しさや、傷心の心を慰めてくれる自然の包容力を感じ取っている。都会に住む人々が観光で田舎を訪れ、自然に触れて生き返る思いを味わう以上に、田舎出身の者は、肌身にその魅力を感じている。私自身がそうである。重吉もそうであったにちがいない。14歳からは故郷を離れて生活しているので、なおさら、無邪気に過ごした幼少年時代が美しいイメージのまま重吉の心に残っていたことであろう。

ただし私は、故郷という言葉のもつ良い響きだけを強調したくはない。確かに重吉の詩に描かれる故郷のイメージは美しいが、それは14歳以後の多感な青春時代に、故郷の社会との対立があまりなかったからである。重吉が育てられた農村社会は、閉鎖的で、個人の自由な思想の羽ばたきを許さない面がある。島田とみ(登美子夫人)との結婚のとき、それがよく表れた。重吉はとみに恋をし、結婚しようとしたが、故郷の兄政三を始め家族は反対した。重吉が家族にろくに相談もせず、自分だけの強い意志で結婚を決めてしまったからである。

当時の農村社会の慣習では、家長が家と家との格式やつながりを考えて決めるものであった。それ故重吉は家族の承諾を得られず、勘当同様の形で結婚した。学生時代に個人の意思に基づいた生き方を築き上げていった重吉の考えは、伝統と慣習に従って行動する故郷の社会では理解されなかった。「自分は常軌を逸した者」という意識を持たざるを得なかった。もし故郷の社会の中にとどまっていたら、詩人重吉は生まれなかったかもしれない。故郷を離れたが故に、自由な思想の翼を広げることが出来、また故郷を離れたために、故郷との対立も結婚問題を除いてはあまりなく、良いイメージとしての故郷を詩に描くことが出来たような気がする。

2. 青年時代と求道

(1)鎌倉時代

14歳から23歳に至る学生時代は、重吉の生涯を左右する人生観形成の時期であり、詩人八木重吉が生まれ出る土台を築いていった時期に当たる。

明治45年、重吉は鎌倉にあった神奈川県師範学校に入学した。特に教師を目指したというより、当時の農村の優秀な子弟が進む一般的なコースとして入学したようである。入学と同時に寮生活に入り、休みには時々家へ帰っているものの、故郷の社会を離れて学問に打ち込むことになる。小学校の頃から、音楽と体育を除いては成績は優秀だったが、とくに英語に抜群の力を発揮した。表紙がすり切れ中身もぼろぼろになるまで英語の辞書を引き、熱心に勉強した。休み時間には、級友が周囲に群がり重吉から教えてもらっていた。

英語に打ち込んだ事から、2つの道が開かれていった。文学と信仰への道である。師範学校時代にどの程度まで2つの道に進んで行ったかは、昭和36年の生家焼失によって、学生時代の日記が灰となってしまったので定かではないが、文学に関しては、『タゴールの詩と文』という本を読んだことがわかっており、信仰に関しては、鎌倉の日本メソジスト教会のバイブルクラスへ通ったことがわかっている。後者については単に英語の勉強のために出席しただけとも考えられるが、バイブルクラスで聖書の内容は必ず教えられるはずだから、重吉の好きな「山上の垂訓」と呼ばれる部分ぐらいは、自然に学んで感化を受けていたことだろう。

文学面については、校内の詩の会にも加わっていたようで、相当の興味をもってのめりこんでいったと思われる。『タゴールの詩と文』の中には、「美は随処に偏在している」「我々は美が凡ての物と調和のあることを切に感ずる」などの一節があり、後に重吉が傾倒した詩人キーツの「美は真であり、真は美である」につながる、重吉の目指したものの土台が含まれている。タゴールは深い宗教的感情に満ちた詩人であり、その感化を受けたことはまちがいないだろう。

(2) 東京時代

大正6年19歳の重吉は、東京高等師範学校(東京教育大学、現在の筑波大学)文科第3部英語科に入学し、油絵も描き始めるようになる。ここでの4年間の生活は、重吉の精神形成の上では最も重要と言える。なぜなら、本格的に文学の世界に親しんで行き、洗礼まで受けるという信仰の目覚めを体験し、生涯の伴侶との出会いをするからである。

まず既にのめりこんでいた文学について言えば、高等師範学校入学後まもなく、北村透谷の著作を読み影響を受けている。重吉は真っ向から透谷のロマンティシズムを浴び、はやくも「想像も事実」という、後のキーツ体験にも一貫して見られる認識と、詩人の使命感に共感している。透谷の「熱意」の中の「人生を解放せんとする者は詩人なり」という部分に、重吉は傍線を引いている。重吉は透谷に心酔し、未亡人ミナを訪問さえしている。

重吉はまた、オスカー・ワイルドの『獄中記』を読んでいる。彼がワイルドから得たのは、世紀末詩人の頽落の姿ではなく、回生の詩人としての姿であった。とくに影響を受けたと思われる思想として、かなしみ(悲哀)がある。ワイルドは『獄中記』の中で、「悲哀は実に一の天啓である。これに依って人々はこれまで認識得なかったもろもろのことを認識する…..人間の到達し得る最高の情緒たる悲哀は、やがて又凡ての大芸術の典型であり試金石であるということである。」と語っている。このように悲哀を人生の基調に見ようとする発想は、重吉に共感を呼び起こし、重吉の詩にもよく現れる。

おもたいかなしみ
おもたい かなしみが さえわたるとき
さやかにも かなしみは ちから
みよ かなしみの つらぬくちから
かなしみは よろこびを
怒り、なげきをも つらぬいて もえさかる
かなしみこそ
すみわたりたる すだまとも 生きくるか
『秋の瞳』

次に重吉の信仰についてみると、タゴールや透谷の著作を読んで宗教的感情に触れており、また小石川福音教会のバイブルクラスにも出ていることなどから、キリスト教入信への素地は養われていた。親しい友人となった吉田不二雄はクリスチャンであった。大正7年12月ころには、聖書を買った事実があり、大正8年には、寮の同質であった村上要人氏と2人で、内村鑑三の講演を聞きに行ったこともあり、重吉がキリスト教に傾倒していっていることは確かである。しかし日記が残っていないので、その辺の状況はよくわからない。

ただ重吉所蔵の聖書の中に、「大正8年3月2日、駒込教会ニテ、富永徳麿牧師ヨリ洗礼ヲ受ク、八木重吉」とメモしてあったことから、それまで知られていなかった受洗の事実が判明した。また富永の日記から、前年の大正7年10月に富永を訪問してキリスト教信仰の本質に関する質問をしていたことがわかった。大正8年1月24日、重吉は富永徳麿牧師に突然手紙をだし、受洗したい希望を述べ、3月2日まで定期的に通っている。受洗後も5月初め頃まで通っているが、その後突然教会から離れて行く。重吉が最初共感したと思われる内村鑑三と、富永徳麿は、再臨信仰の点で激しい論争をするが、再臨については、重吉は内村の考えの方に引かれていったようである。

しかし、重吉が教会へ行かなくなったことからすぐ、重吉が内村鑑三の無教会信仰に立ったと断定してしまうのはどうかと思う。確かに再臨信仰がはっきりしている点では内村と同じだが、教会を離れて後、無教会派の集会に参加してもいないし、内村の著作や思想に熱中した様子もない。むしろ富永の説いた「神の子供としての霊的な生活」を目指していた。再臨信仰については、聖書をよく読んだ重吉の素直な理解から来ているようだ。

思うに重吉の信仰は、一つの派に立つ信仰でなく、彼独自の信仰へと深く進んでいったような気がする。むろん基本的なキリスト教の考えはしっかりもっていることが、彼の詩から理解できるが、加えて日本人の自然観や土俗信仰の影響なども見ることができる。そして何よりも、重吉はクリスチャンと同時に詩人であろうとした。人生の真理を探究せんとする詩人としての生き方が、教会生活を可能にしなかったのではないか。であるから教会を離れても、重吉の信仰は希薄になるどころか、ますます深められていくのである。

大正8年12月、重吉は全国的に流行したスペイン風邪にかかり、肺炎を併発して入院する。二か月余り入院した後、堺村へ帰って自宅療養し、回復後本科3年に進み寮へ戻ろうとした。しかし病気持ちということで寮を追われ、池袋の素人下宿に入った。これが生涯の伴侶との出会いを導くことになる。

大正10年3月、同宿の石井教諭に頼まれ、島田とみの勉強を見る。とみは、父の死後兄夫婦と共に新潟県から上京し、この年独学で滝野川の女子聖学院三年級の編入試験を受けようとしていた。重吉はとみの勉強の仕上げを1週間見てやり、とみは試験に合格した。この1週間の家庭教師によって、その後重吉のうちにとみへの恋が芽生えていく。しかし重吉はすでに兵庫県御影師範学校への赴任が決まっていたので、3月31日に御影へ出発した。

3. 詩人としての燃焼

(1) 御影時代

御影師範学校への赴任と同時に、重吉は教師としての現実の苦悩に直面する。文学や信仰世界への突入を通して、真摯な生き方を目指してきた重吉にとって、現実の生徒や同僚教師は、あまりにも夢の無い人々に映り、失望が大きかった。純真な魂の持ち主であった重吉は、職員室での世間話にさえ加わらなかった。それでも教師としての使命を第一に考えるならば、現実の中に俗化されつつ道を切り開いていくのかもしれないが、純粋すぎる重吉の場合、現実の苦悩を乗り越えるために、まずは、教師は生活の糧を得る手段だと自分に言いきかせて忍耐したようだ。そして自分の生活を芸術化する、つまり文学創造によって、彼の内面に湧き上がってくるものを昇華させていった。また一度確かにつかんだ信仰は、白紙答案を出されるという苦悩の中にあっても、「生徒を神の化身と思って」愛していく気持ちに導いていく。

生徒や同僚の教師の現状に失望、苦悩したことはまた、可憐なとみへの恋心に火をつける。日に日に募ってゆくとみへの思いを重吉は日記につづり始め、また夥しい短歌を作るが、ついに思い切って東京高等師範学校の先輩であり恩師でもあった内藤卯三郎に相談し、とみへの結婚申し込みを頼む。とみはまだ16歳であり、一週間しか会っていない重吉の求愛におろおろしていたが、彼の誠実な熱意に動かされ、とみの方でも重吉を愛するようになる。とみが若すぎると反対したとみの兄も、重吉の情熱に負ける。重吉の家族は先に述べたとおり、反対するが、重吉は反対にも屈せず、ついに大正11年1月婚約が成立し、結婚はとみの卒業後2年してからという約束になった。

しかし5月に、とみが肋膜炎にかかったと聞いた重吉は、急ぎ上京し、御影へ連れて行って自分が直すからと、とみの兄を説得、聖学院4年でとみを中途退学させ、7月に2人は内藤卯三郎立会で、3人だけの結婚式をあげた。重24歳、とみ17歳であった。重吉は、婚約から結婚に至るまでの間に、何通もの情熱的な手紙を書いている。ほとんど毎日、時には1日に2通書くこともあった。とみの返事を待ちきれないでいる。この時に示された重吉の情熱は、あのおとなしい風貌からは想像できないが、重吉の意志の強さが、とみとの結婚においては最大限に現れた。

婚約前、とみへの恋心や教師としての苦悩を短歌に表現していたが、とみとの結婚以後は、詩に変わっている。石川啄木の影響を受けて一時短歌に親しんだようだが、もっと自由な表現ができる詩の方へ自然と移っていったと思われる。元来が鎌倉の師範学校時代から詩の会に加わって詩に親しみ、高等師範になると、透谷から詩人としての使命を学び取っていた重吉であるのだから、当然のことであろう。

大正11年(24歳)後半から本格的に詩が書き始められていき、同時にキーツや日本の詩人の詩集を買い求め、よく勉強している。美意識ではキーツの、短詩型では山村募朝の影響をとくに受けていると思われるが、根本において、重吉の詩は重吉独自の特徴を持っている。他の人の詩をまねたものではない。彼の内面に湧き上がる泉が詩となるのだ。彼の豊かな感受性が、日常生活や自然の一コマを通して映し出され、彼の真摯な求道精神が、詩人および信仰者としての自分を問い詰めて行く。それゆえ次々に詩が生まれ、5年間に約3千篇の詩を書いている。詩を書くことが生きることであるかのように。

結婚して子供も生まれると精神的に落ち着いて来ていた。美術部の指導を通して、教え子たちとも交流が出来た。のちに「こころの友達となってくれないか」と手紙を書いた生徒もいた。さらに子供の誕生によって「幼子の純真な心」に、信仰の深まった境地を見い出していた。気候は温暖で、六甲山やそこから望む神戸の海は美しかった。近所に住む人々も、若い重吉夫婦を助けてくれた。

(2) 柏時代

重吉は大正14年柏に転任することになった。もっと教えやすいところで、また故郷に近い所で教えたいという思いから、転勤を希望していたのである。柏は、重吉が好きだった万葉集に出て来る葛飾地方の一角を占めていた。重吉が東葛飾中学へ赴任して来た頃の柏は、東葛飾郡千代田村柏であり、江戸時代の軍馬養成の名残りの牧の小金ヶ原と呼ばれる広い原っぱの一角を占めていた。柏は、水戸街道(現国道6号線)沿いの小さな寒村であった。明治29年に常磐線の柏駅、44年に野田軽便鉄道(東武野田線、現在は東武アーバンパークラインの愛称で呼ぶ)の柏駅が設けられ、交通の要衝として発展しつつあった。そこに大正13年の東葛飾中学の設置及び翌14年のモダンな新校舎の完成で、学校近辺は学校町と言ってもいいくらいの賑わいを見せるようになった。大正15年には、町制が布かれ、千代田村は柏町となった。それでも大手のデパートが立ち並ぶ現在の柏と比べれば、田舎町であり、林や森の中に田畑が点在するという景観であった。広大な原っぱの自然を背景に、重吉は多くの詩を書いた。

ずいぶん
広い原っぱだ
いっぽんのみちを
むしょうにあるいてゆくと
こころが
うつくしくなって
ひとりごとをいうのがうれしくなる
『文章倶楽部』

ほそい
松がたくさんはえた
ぬくいまつばやしをゆくと
きもちが
きれいになってしまって
よろよろとよろけてみたりして
すこし
ひとりでふざけたくなった
詩稿「ことば」

東葛飾高校の敷地の一角に、現在もなお数十本の細長い松が残っている。当時は学校の周囲を始めとして、松林や雑木林が広がっていた。だだっ広い関東平野のど真ん中なので、近くに山がなく、わずかに北側の筑波山が林の上に見えた。少し高台に登ると、遠く西側に富士山が望めた。

柏での重吉一家の住居は職員住宅で、東葛飾中学から約400メートル程の所にあった。家の前には、3万坪と言われた原っぱ(今の豊四季団地)があった。裏側に共同井戸があり、桜の木が2本植えられていた。その向こうに垣根があり、その外は桐林と麦畑、さらにその向こうを野田線が走っていた。現在は当時の面影が全く無いので、職員住宅の位置もつかめないでいたが、共同井戸があったということから、井戸を手がかりに、愛好会で調べた結果、当時からあったと思われる井戸が見つかり、重吉が入っていたと思われる住宅跡の正確な位置がほぼわかった。重吉は学校から家に帰ってくると、家族を連れてよく散歩に出た。そして詩をつくった。

桐ばやしは
わらわぬ
うつくしいひとの
ほほのようだ
詩稿「桐の疎林」

あかつちの
くずれた土手をみれば
たくさんに
木のねっこがさがってた
いきをのんでとおった
詩稿「赤つちの土手」

東葛飾中学での授業の様子は、重吉に英語を教わった2回生の証言によれば、次のようであった。最初に英語の発音記号をみっちり教え、正確な発音を覚えさせた。また左手に教科書を持ち、右手で下あごをなでながら講義をし、時々合掌するように手のひらにはさんだチョークを、クルクルまわす癖があったと言う。少し早口であったが、熱のある話しぶりだったようだ。自分が詩人であることを、とりたてて宣伝はしなかったようだが、大正14年8月に処女詩集『秋の瞳』が出版されて話題になると、時々授業の中で詩の紹介もした。そして重吉は、「詩作は決して難しくもなければ技巧もいらない。ただ強く感じたことをそのまま書けば詩である。諸君もどしどし作ってみて下さい。」と語ったそうである。病を得て東葛飾中学を去ることになった日の最後の授業で、重吉は英詩の講義をしたあと、「キリストの再来を信ず」と言って、教壇を去っていった。クリスチャンであった重吉は、この頃には信仰的にも深まりを見せていた。

彼は言った
自分は再び此の世へ来ると
私は基督より正直な者があるとは思えない
私は彼が再び来ることを信じる
詩稿「麗日」

(3) 茅ケ崎時代

柏での1年余りの生活後、肺結核のため茅ケ崎の南湖院に入院、登美子夫人の茅ケ崎と柏を往復する生活が始まった。かつてたくさんの恋文を書いた重吉は、今度は母親に甘えるがごとく、早く来てくれとハガキを出した。ついに家族で茅ケ崎の借家に引っ越すことになった。重吉も南湖院から借家に移り自宅療養に入った。しかし病状が回復することはなく、ついに昭和2年10月26日、29歳の若さで病没した。

病床にあっても重吉は詩を書き続けた。柏時代の短い詩は、的確にずばり表現するが故に切り詰められて短くなったが、茅ケ崎時代は進みゆく病状の中で必死に思いを表現しようとした短い詩になっていた。まさに詩人として燃焼し尽したと言える。

教会に行かず、内村鑑三の著作にも感化され、独自の信仰の求道に向かった重吉であったが、教派としての無教会信仰ではなかったと言えるのは、死ぬ直前に、唯一通ったことがある教会の牧師である富永徳磨を呼んでわびたことに現れる。神の子にふさわしい生活を求めての求道は、富永の教えに感化されていたからである。純粋な魂の詩人と言われる重吉は、罪のない神の子であるイエスの生き方に倣おうとしていた。イエスに似た生き方をしたアッシジのフランシスコにも感化されていた。

若くして召天したために、純粋で真摯なままの重吉が私たちの心に映し出される。星の輝きのような詩人と言われるのももっともである。29歳で夭逝したのは残念であるが、重吉が残した詩は、心に痛みや悲しみを持った人々の心を癒す力を秘め、永遠に輝き続ける。