八木重吉写真

八木重吉年譜

1.八木重吉の生涯

1898年(明31)
・2月9日 東京府南多摩郡堺村相原大戸4473(現在の東京都町田市相原町4473)に、代々農業を営む八木家(裕福)の次男として生まれる。
1904年(明37)
・4月 大戸学校(明治42年には相原尋常小学校と合併して相原尋常小学校大戸分校となる)に入学する。
1908年(明41)
・この年から隣村の神奈川県津久井郡川尻村尋常小学校へ通う。
1910年(明43)
・川尻村尋常小学校高等科へ進む。この年、前年準訓導として赴任していた再従兄の加藤武雄の教えを受けたと思われる。
1912年(明45・大元)
・4月 鎌倉の神奈川県師範学校予科一年に入学し、寮生活に入る。英語の成績抜群。
1915年(大04)
・『タゴールの詩と文』を愛読し、学校内の詩の会に加わる。英語への興味から、一時、日本メソジスト鎌倉教会(現在の日本基督教団鎌倉教会)のバイブルクラスに通う。
1917年(大06)
・4月 東京高等師範学校文科第三部英語科(予科一年)に入学、寮生活に入る。
1918年(大07)
・北村透谷やオスカー・ワイルドを愛読し、心の奥底に秘められていた重吉の〈かなしみ〉の観念が明確になってくる。またこの頃同級生と一緒に、一時、小石川福音教会(現在の日本基督教団小石川白山教会)のバイブルクラス【ローラ・モーク女子が指導していた「月曜会」で、聖書をそのまま信じる信仰に立っていた】に通う。
・10月26日 吉田不二雄と一緒に、本郷の駒込基督会の富永徳麿を訪問し、キリスト教に批判的な質問をするが、最後には服す。
・12月 終生愛読することになる聖書(詩編付の『新約全書』)を購入。
1919年(大08)
・1月 一人で富永を訪問し、高慢を悔い、洗礼を懇願するが、「求道者会」でよく理解してからということで、通い始める。
・2月 親友吉田不二雄の急死に会うが通い続け、早急の洗礼を願う。
・3月2日 富永より洗礼を受ける。
・3月11日 吉田不二雄の遺稿集『一粒の麦』を刊行する。
・5月4日 夕方の礼拝出席を最後に、顔を出さなくなる。(従来言われてきた、内村鑑三の講演会を聴きに行った事があるというのは、この年の後半ぐらいと思われる。)
・12月 全国的に流行したスペイン風邪にかかり、肺炎を併発して入院する。
1920年(大09)
・2か月余りの入院生活後退院、自宅へ帰って療養する。その後寮へ戻ろうとしたが、肺病と疑われ、寮を追われるように出て、池袋の素人下宿に入る。この年、岡倉由三郎に教授をうけている。岡倉は「万国音標文字」(発音記号)を紹介し、発音重視の英語教授を提唱・実践していた。(のちに重吉も自分の授業で実践することになる)
1921年(大10)
・3月 女子聖学院三年の編入試験を受けようとしていた、島田とみの勉強を一週間見てあげ、とみは合格する。
・3月31日 兵庫県御影師範学校教諭兼訓導に、任ぜられ、武庫郡住吉村山田の柴谷米助方に下宿する。
・9月 とみに愛を告白。東京高師の先輩内藤卯三郎に、とみへの結婚申し込みを頼む。
・12月 とみと兄の慶治、内藤と重吉の4人で芝公園内の茶屋で会う。
1922年(大11)
・1月 父藤三郎を加えた5人で、横浜市本牧の本牧神社で婚約式を行う。(兄の藤三郎は反対で、重吉の結婚も勘当扱いで認められた。)
・2月 下宿を武庫郡魚崎町下松原八番屋敷松風館内にかえる。
・5月 とみが肋膜炎にかかったと聞き、御影で療養させ自分の手で教育すると兄慶治を説得し、とみを中途退学させる。
・7月19日 石屋川の借家(申御田954)で内藤卯三郎立ち合いのもと3人で結婚式を行う。その後、それまで書いていた短歌に代わり、詩を本格的に書き始める。詩と信仰に打ち込み、油絵を描く日常となる。キーツの詩を読み始める。

桃子

1923年(大12)
・詩を自編した手製の詩稿集を作り始める。
・3月 御影町柳851の借家へ移る。
・5月 長女桃子生まれる。
・キーツの研究進む。
1924年(大13)
・6月 キーツの研究本格化し、研究家の佐藤清に手紙を書く。また6月18日、来日したタゴールの講演を神戸で聞く。
・10月 美術部の顧問(初代部長が門脇清)として、作品出品。
・『秋の瞳』を編み、加藤武雄のもとへ送って出版を依頼。
・12月 長男陽二誕生
1925年(大14)
・3月31日 千葉県立東葛飾中学校に転任。千代田村の裕福な商家の離れに仮住まいをする。
・4月 新築の職員住宅(豊四季番外42号)に入る。
・7月 読売新聞に寄稿した四篇掲載、初原稿料2円もらい、聖書を購入。
・8月1日 『秋の瞳』出版。『詩の家』の佐藤惣之助に誘われ同人となる。
・9月27日 鶴見三笠園での野外詩会に、重吉も出席した。
1926年(大15・昭元)
・1月 学校の新年会の席で、寄せ書きに「キリストの再来を信ず」と書いた。
・2月 風邪で病臥、この頃草野心平が訪れ一泊する。
・3月 東京九段の東洋内科医院で高田畔安博士の診断を受け、結核の第二期と宣告される。小文「聖書」を、御影師範学友会士誌『甲陽』第三十七号に寄稿。
・4月 新学期早々の最後の授業で「キリストの再来を信ず」と言って教壇を去る。
・5月 休職となる。神奈川県高座郡茅ヶ崎町の、東洋内科医院の分院南湖院に移り、療養生活に入る
・7月 十間坂5224(現共恵1-13-34)に借家を得て自宅療養に入る。
・10月2日 重吉の要請に応じて、富永徳麿が重吉を見舞う。無断で基督会を去った非礼を詫びると、富永は聖書の言葉で励ましを与えた。
・第二詩集『貧しき信徒』を自選し、再び加藤武雄に出版依頼をする。
1927年(昭02)
・6月 東葛飾中学校を依願退職。
・10月 危篤を告げられ、高熱の中で十字を切り祈る。
・10月26日 午前4時30分、とみの名を呼びながら召天する。

2.八木重吉の没後

1928年(昭03)
・2月 『貧しき信徒』が、加藤武雄の自費で野菊社から刊行される。
・2月 雑誌『草』3号が「八木重吉追悼号」を出す。
・2月 短歌雑誌『野菊』6月号が、「八木重吉『貧しき信徒』批評号」を出す。
1937年(昭12)
・12月 桃子(12歳)、父と同じ病で死去。
1940年(昭15)
・7月 陽二(15歳)、父と同じ病で死去。
1942年(昭17)
・7月 山雅房より『八木重吉詩集』が刊行される。
1945年(昭20)
・10月 とみこ夫人、歌人吉野秀雄と再婚する。
1948年(昭23)
・3月 創元社より創元選書の一冊として「八木重吉詩集」が刊行される。
1950年(昭25)
・3月 新教出版社より『神を呼ぼう』(鈴木俊郎編)が刊行される。
1952年(昭27)
・10月 25周年の法要行われる。
1953年(昭28)
・川尻村公民館で「八木重吉を偲ぶ会」催される。
1956年(昭31)
・9月 加藤武雄死去。
・12月 東京都中野区の中の文化会館で、「八木重吉没後30年記念講演会」が開催される。
1958年(昭33)
・4月 弥生書房から『定本八木重吉詩集』刊行される。また生家の庭に、最初の詩碑「素朴な琴」が建立序幕される。
1959年(昭34)
・12月 弥生書房から、定本刊行後に発見された詩稿を元に編集された詩集『花と空と祈り』が刊行される。
1961年(昭36)
・4月 重吉生家火事に会い、土蔵を除いて消失、学生時代の日記等失われる。
1965年(昭40)
・関茂著『八木重吉―詩と生涯と信仰―』刊行される。
1969年(昭44)
・田中清光著『詩人八木重吉』刊行される。
1971年(昭46)
・9月 麦書房から『八木重吉未発表遺稿と回想』が刊行される。
1973年(昭48)
・10月25日 町田市堺中学校で「八木重吉没後47年を記念する会」が開催される。
1976年(昭51)
・10月24日 町田市相原小学校で「八木重吉50年祭」開催される。
・10月26日 弥生書房より吉野登美子著『琴はしずかに』が刊行される。
1977年(昭52)
・5月 町田市相原幼稚園(大戸学校跡)に、詩碑「ふるさとの川」、川尻小学校に詩碑「飯」が除幕される。
・10月26日 御影中学校に、詩碑「夕焼」序幕される。
1980年(昭55)
・3月 西宮の夙川公園に、詩碑「幼い日」序幕される。
1982年(昭57)
・9月 筑摩書房より、『八木重吉全集』(田中清光・吉野登美子編)が刊行される。
1984年(昭59)
・2月 筑摩書房から『八木重吉文学アルバム』(田中清光編)が刊行される。
・10月 土蔵を改装した八木重吉記念館が開館され、命日の催しが「茶の花忌」と命名され、毎年の恒例の行事となる。
1985年(昭60)
・2月 千葉県柏市で「八木重吉の詩を愛好する会」が結成される。
・11月 千葉県立東葛飾高校(旧制東葛飾中学)に、詩碑「原っぱ」序幕される。
1986年(昭61)
・10月 愛知県西尾市の八ツ面山公園に詩碑「ひびいてゆこう」が、坂村真民氏の「念ずれば花ひらく」の碑と共に序幕される。
1988年(昭63)
・4月 西尾市みどり川河畔に、詩碑「花」が、吉野秀雄の歌碑「わが胸の底いに」及び登美子夫人を記念した碑「和愛」の碑と共に除幕される。
・生家で重吉の胸像序幕される。
1990年(平02)
・10月 「八木重吉の詩を愛好する会」が、絵はがきセット(8枚入り)を刊行する。
1991年(平03)
・10月 いのちのことば社より『わがよろこびの頌歌はきえず』刊行される。
1994年(平06)
・3月 町田市相原町大戸小学校通学路沿いに、詩碑「ねがひ」建立除幕される。
1995年(平07)
・10月 「八木重吉の詩を愛好する会」が十周年記念誌『いっぽんのみち』を刊行する。
1999年(平11)
・2月18日 吉野登美子夫人死去
2005年(平17)
・10月 茅ケ崎で詩碑「蟲」序幕される。
2006年(平18)
・6月 東京、聖学院でシンポジウム「東京時代の八木重吉をさぐる」
・茨城キリスト教大学でもシンポジウム、3人の愛好家による講演と質疑応答。(以後毎年秋に継続)
2012年(平24)
・11月 八木重吉の詩を愛好する会が、『柏時代の詩人八木重吉』を発行し、無料配布
2013年(平25)
・10月 茶の花忌の開催が、台風接近の雨の中で危ぶまれたが、墓前祭のみに限定して行われた。
2014年(平26)
・7月 八木重吉記念館がホームページ公開。
・9月 八木重吉の詩を愛好する会がホームページ公開。
・10月2日 茅ケ崎で詩碑「蟲」建立9周年の集い開催。
・10月4、5日 柏の八木重吉の詩を愛好する会が「教師としての八木重吉」(小林)、「八木重吉の孤独」(天利)と題して講演を行う。
・10月26日 町田の生家で茶の花忌(没後87年)開催される。
2015年(平27)
・10月04日 茅ケ崎の「八木重吉の会」が詩碑「蟲」建立10周年行事を開催。
・10月26日 町田の生家で茶の花忌(没後88年)開催。
・10月31日 柏の「八木重吉の詩を愛好する会」が詩碑「原っぱ」建立30周年記念会を開催。
2016年(平28)
・10月22日 町田市民文学館で「八木重吉―さいわいの詩人―展」開催(12月25日まで)。54日間で5003人来場。
・10月26日 茶の花忌(没後89年)生家で開催。墓前礼拝後は、町田市民文学館に移動して「八木重吉展」見学。
2017年(平29)
・ 1月 4日 八木重吉記念館館長八木藤雄氏(八木重吉の甥)死去、92歳。
・10月26日 茶の花忌(没後90年)開催。
2018年(平30)
・10月26日 茶の花忌(没後91年)開催。
2019年(令和元年)
・10月26日 茶の花忌(没後92年)開催。
2020年(令和2年)
・10月26日の茶の花忌の催しはコロナ感染防止の為中止、
親族で墓前礼拝のみ実施。
2021年(令和3年)
・前年に続き、茶の花忌の催しはコロナ感染防止の為中止、
親族で墓前礼拝のみ実施。
2022年(令和4年)
・10月26日の茶の花忌(没後95年)開催。
2023年(令和5年)
・10月26日の茶の花忌(没後96年)開催。